( 1908年2月12日〜1999年2月24日)
福島県会津若松市生まれ。父親の仕事の関係で、3歳で台湾に渡る。
台北一中を経て、早稲田大学仏文科へ進学、吉江喬松に師事。
卒論のテーマはアルチュール・ランボー。1933年に卒業して台湾日日新報に就職。
台湾日日新報の学芸部長のかたわら、日孝書房(限定出版社)を経営。
『台湾風土記』(1939年)、『華麗島』(1939年)、『文芸台湾』(1940年)などを創刊。
敗戦後の1946年、日本に引き揚げる。台湾の真理大学に蔵書2万冊余りを寄贈した。

 ちょうど、邱が台北高等学校に進み、文学に傾倒し、自分で同人誌を発行するようになったころ影響を受ける。 またのちに、邱が香港に亡命した後、香港から日本の文芸誌の懸賞、「オール読物新人杯」に投稿した際、世話をする。 また、邱が香港から再び来日し、小説を書き始めたとき、自分が属していた「長谷川伸」門下生の勉強会「新鷹会」に邱を紹介し、方々「大衆文芸」に作品掲載の労をとる。
ちなみに、長男は経済学者の西川潤氏。 (出典『わが青春の台湾 わが青春の香港』。「西川満 - Wikipedia」)。