(1902 ~ 1993.9.2)

 ⚪︎劉明の経歴(翻訳)
劉國の息子、嘉義。 1924年、横浜の帝国高校に入学し、1928年に東京高等工業学校応用化学科を卒業。学校ではかつてタケノコを台湾から東京に売り、生活を維持するために東京の台湾の学生に売りました。台湾に帰国後、嘉義にある金鎮山会社が直接運営する瑞芳大金坑鉱山局で働いた後、太陽鉱業がホウダグッケン金鉱を買収し、鉱業を続けました。戦後、朱趙陽氏は延平大学の経営を望み、瑞芳の李建星や基隆の延琴仙など、各地の紳士を訪ね、学校の設立に積極的に貢献しました。 2月28日の事件の後、学校は閉鎖された。 1949年、台湾炭調整委員会の委員長に任命され、日本からの友人である 蕭焜裕(シャオクヌユ)を幹事に任用した。シャオはスパイ事件に関与し、関与していた。その後、「台湾民主自治連盟」のメンバーであり、共産党の団結した前線活動に従事したとして非難されました。彼は共産党の前線活動に従事した嫌疑で逮捕され、10年の刑を宣告され、1958年7月15日に釈放された。

(原文)(出典:線上臺灣歷史辭典. Dictionary of Taiwan History.)
嘉義人,劉闊之子。1924年入日本橫濱皇道中學,1928年東京高等工業學校應用化學科畢業。在學中曾由臺灣試銷筍乾到東京,交由在東京的臺灣留學生販賣以維持生活。歸臺後,到嘉義金振山商行直營的瑞芳大粗坑金鑛部工作,後大粗坑金鑛被臺陽鑛業收購,仍繼續鑛業工作。戰後,朱昭陽欲辦延平學院,曾幫忙拜訪各地的士紳,如瑞芳的李建興、基隆的顏欽賢,積極出資參與設校工作。學校於二二八事件後被關閉。1949年任臺灣省石炭調整委員會主任委員,任用留日朋友蕭焜裕為幹事,蕭涉匪諜案,因而受到牽連,後被指控為「臺灣民主自治同盟」的盟員、為共產黨從事統戰活動的罪嫌被捕,判刑10年,1958年7月15日獲釋。

⚪︎ 邱永漢のかかわり 
 邱は記述の通り延平学院の設立に奔走した一人であった。そして、延平学院の設立のスポンサー(多分、上記の「劉明」)の娘さんを好ましく思い、別途企てた台湾から日本への砂糖の密貿易が成功したら、結婚の申し入れをするつもりでいた。しかし、砂糖の密貿易の話は不成功に終わり、プロポーズには至らなかった。

(参考 邱永漢著『失敗の中にノウハウあり』(「風とともに去った」砂糖密貿易の話)。
    同著『わが青春の台湾 わが青春の香港』