(1924年~2017年)
⚪︎ 薄井憲二の履歴
・幼少期から、母や姉とともに歌舞伎や宝塚歌劇団などの舞台を観に行き、踊りを見ることを好む。
・母が後援していた女学校の記念公演に出演したエリアナ・パヴロワの舞台でバレエを初めて観る。
・中学校に入る前、レコード店で偶然聞いたイーゴリ・ストラヴィンスキーの『火の鳥』がきっかけでバレエにはっきりと関心を持つ。
・1941年1月、東勇作バレエ団の『牧神の午後』、『薔薇の精』の公演を観る。その時のプログラムに掲載されていた「バレエ研究会」の広告を見て、月1度の例会に参加するようになり舞踊評論家の蘆原英了の話を聞く。
・1942年(昭和17年)蘆原が出版した『古典舞踊の基礎』を読み、バレエは実際に踊らないとわからないと考え、東勇作のもとへ週に3回の稽古に通いはじめ、東勇作バレエ団の『セレナード』で舞台に初出演。
・1942年(昭和17年)10月、東京大学経済学部に入学。バレエの稽古にはずっと通う。
・ 1945年(昭和20年)1月、召集令状が届き、千葉鉄道連隊に入隊。
2月に満洲国のハルビン市に赴任。
・1945年(昭和20年)8月、ハルビン市で終戦の日を迎える。ソビエト連邦軍の捕虜となる。
・1946年(昭和21年)1年毎くらいの間隔で別の村に移動させられ、2年目あたりからロシア語がかなり理解できるようになる。
・1948年(昭和23年) 抑留生活が3年目、キルガという村に滞在していたときに村の人々向けの映画会『バレエのソリストたち』を見せてもらい、舞台装置などの揃った本格的なバレエを初めて観、その華やかさに圧倒される。
・ 1949年(昭和24年)4年に及ぶ抑留生活を終えて復員し、東京大学に復学し、東勇作バレエ団に再入団。ヴィタリー・オシンズ[13]、アレクセイ・ヴァルラーモフ等に師事。
1950年(昭和25年)「血のメーデー事件」の当日に有楽町の第一生命館で行われた公演が復帰後の初舞台となる。
1951年(昭和26年)東京大学を卒業。古典・創作を問わずバレエの舞台に出演し、草創期のテレビ放送にも多く出演。ダンサーとしての活動の他に『指輪をはめた犬』、『春の海』、『レ・シルフィード』など振付も手掛る。
1957年(昭和32年) 由井カナコなどとともに「バレエ1957」を結成。
・ダンサーとしての現役生活を退いた後は、京都バレエ専門学校やロシア・バレエ・インスティテュートなどで後進の指導に当たRUほか、モスクワ、ヴァルナ、ペルミ、ジャクソンなどの国際的バレエコンクールの審査員、舞踊史の研究や評論、執筆活動や舞踊に関する洋書の翻訳など幅広い分野で活動。
・1958年(昭和33年)。設立された日本バレエ協会で評議委員や広報部などさまざまな役職を務める。
・2002年(平成14年)日本バレエ協会副会長を務め、2006年に谷桃子の後任として第4代日本バレエ協会会長に就任。
・1930年代からバレエ関連の文献資料収集。個人が収集したものとしては世界有数で、兵庫県立芸術文化センターにおいて公開されている。
・2006年(平成18年) 紺綬褒章を受章。
・2012年(平成24年)4月 芦屋大学に招聘され、経営教育学部経営教育学科バレエコースを講義。
・2017年(平成29年)12月24日未明、悪性リンパ腫により京都府京都市山科区の病院で死去。
・主な著書:「バレエ その発生から現代まで」(音楽ノ友社)/「バレエ千一夜」(新書館)/「キエフ・バレエ くるみ割り人形」(音楽ノ友社) 他 主な翻訳:「バレエ」(みすず書房)/「バリシニコフ・オン・ブロードウエイ」(新書館)/「踊る大紐育 ある日系人ダンサーの生涯」(晶文社) 他
⚪︎ 邱永漢(邱炳南)との交流
・東京帝国大学経済学部商業学科の同窓生。
・大学時代、薄井憲二氏にとって、邱炳南は話し相手になてくれる数少ない友人であった。
・邱は戦後、再来日した際、薄井憲二の兄で、文藝春秋に務めていた薄井恭一氏の恩恵に預かっている。
・邱永漢は自著『サラリーマン出門』(「骨董品屋は新しい商売」)で、京都の骨董屋の番頭におさまったいる薄井のことを描いている。
・邱永漢は上海での事業展開後、薄井憲二と会食している。
(参考:「薄井憲二 - Wikipedia」。半谷史郎 著 「バレエ評論家・薄井憲二氏(1924∼2017)の聞き書き」。邱永漢著『サラリーマン出門』(「骨董品屋は新しい商売」)
⚪︎ 薄井憲二の履歴
・幼少期から、母や姉とともに歌舞伎や宝塚歌劇団などの舞台を観に行き、踊りを見ることを好む。
・母が後援していた女学校の記念公演に出演したエリアナ・パヴロワの舞台でバレエを初めて観る。
・中学校に入る前、レコード店で偶然聞いたイーゴリ・ストラヴィンスキーの『火の鳥』がきっかけでバレエにはっきりと関心を持つ。
・1941年1月、東勇作バレエ団の『牧神の午後』、『薔薇の精』の公演を観る。その時のプログラムに掲載されていた「バレエ研究会」の広告を見て、月1度の例会に参加するようになり舞踊評論家の蘆原英了の話を聞く。
・1942年(昭和17年)蘆原が出版した『古典舞踊の基礎』を読み、バレエは実際に踊らないとわからないと考え、東勇作のもとへ週に3回の稽古に通いはじめ、東勇作バレエ団の『セレナード』で舞台に初出演。
・1942年(昭和17年)10月、東京大学経済学部に入学。バレエの稽古にはずっと通う。
・ 1945年(昭和20年)1月、召集令状が届き、千葉鉄道連隊に入隊。
2月に満洲国のハルビン市に赴任。
・1945年(昭和20年)8月、ハルビン市で終戦の日を迎える。ソビエト連邦軍の捕虜となる。
・1946年(昭和21年)1年毎くらいの間隔で別の村に移動させられ、2年目あたりからロシア語がかなり理解できるようになる。
・1948年(昭和23年) 抑留生活が3年目、キルガという村に滞在していたときに村の人々向けの映画会『バレエのソリストたち』を見せてもらい、舞台装置などの揃った本格的なバレエを初めて観、その華やかさに圧倒される。
・ 1949年(昭和24年)4年に及ぶ抑留生活を終えて復員し、東京大学に復学し、東勇作バレエ団に再入団。ヴィタリー・オシンズ[13]、アレクセイ・ヴァルラーモフ等に師事。
1950年(昭和25年)「血のメーデー事件」の当日に有楽町の第一生命館で行われた公演が復帰後の初舞台となる。
1951年(昭和26年)東京大学を卒業。古典・創作を問わずバレエの舞台に出演し、草創期のテレビ放送にも多く出演。ダンサーとしての活動の他に『指輪をはめた犬』、『春の海』、『レ・シルフィード』など振付も手掛る。
1957年(昭和32年) 由井カナコなどとともに「バレエ1957」を結成。
・ダンサーとしての現役生活を退いた後は、京都バレエ専門学校やロシア・バレエ・インスティテュートなどで後進の指導に当たRUほか、モスクワ、ヴァルナ、ペルミ、ジャクソンなどの国際的バレエコンクールの審査員、舞踊史の研究や評論、執筆活動や舞踊に関する洋書の翻訳など幅広い分野で活動。
・1958年(昭和33年)。設立された日本バレエ協会で評議委員や広報部などさまざまな役職を務める。
・2002年(平成14年)日本バレエ協会副会長を務め、2006年に谷桃子の後任として第4代日本バレエ協会会長に就任。
・1930年代からバレエ関連の文献資料収集。個人が収集したものとしては世界有数で、兵庫県立芸術文化センターにおいて公開されている。
・2006年(平成18年) 紺綬褒章を受章。
・2012年(平成24年)4月 芦屋大学に招聘され、経営教育学部経営教育学科バレエコースを講義。
・2017年(平成29年)12月24日未明、悪性リンパ腫により京都府京都市山科区の病院で死去。
・主な著書:「バレエ その発生から現代まで」(音楽ノ友社)/「バレエ千一夜」(新書館)/「キエフ・バレエ くるみ割り人形」(音楽ノ友社) 他 主な翻訳:「バレエ」(みすず書房)/「バリシニコフ・オン・ブロードウエイ」(新書館)/「踊る大紐育 ある日系人ダンサーの生涯」(晶文社) 他
⚪︎ 邱永漢(邱炳南)との交流
・東京帝国大学経済学部商業学科の同窓生。
・大学時代、薄井憲二氏にとって、邱炳南は話し相手になてくれる数少ない友人であった。
・邱は戦後、再来日した際、薄井憲二の兄で、文藝春秋に務めていた薄井恭一氏の恩恵に預かっている。
・邱永漢は自著『サラリーマン出門』(「骨董品屋は新しい商売」)で、京都の骨董屋の番頭におさまったいる薄井のことを描いている。
・邱永漢は上海での事業展開後、薄井憲二と会食している。
(参考:「薄井憲二 - Wikipedia」。半谷史郎 著 「バレエ評論家・薄井憲二氏(1924∼2017)の聞き書き」。邱永漢著『サラリーマン出門』(「骨董品屋は新しい商売」)
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