⚪︎荘要傳の経歴

・中学時代、出身地の万華で、特高に共産党員の嫌疑をかけられ、親指一本で天井から吊り下げられるが、白杖を拒否。
・台湾の学校を辞め、中央大学法学部に入学し、高等文官試験を受け、外交官の部で合格。
・朝日新聞に採用され、大学中退し、入社。
・1941年(昭和16年)大東亜戦争が起こり、香港勤務となる。
1945年(昭和20年)台湾に帰り、新聞社に勤務。
1947年(昭和22年)2・28事件に怒り心頭に発し、
朝日新聞を退社し台湾銀行に入行。
     南京のステュワート米国大使に談判。
1948年(昭和23年)10月末、 邱炳南とともに香港に逃げ、廖文毅邸に投宿する。
           香港滞在約1ヶ月後、ヤミ船に乗り、日本に渡る。
           東京で「台湾独立連盟」をつくり、占領軍司令部に出入るするようになるが、ある日、夜睡眠中、息絶える。

⚪︎ 邱永漢(
邱炳南)のかかわり

・1948年(昭和23年)勤務先の上司、林益謙しの紹介で台北市京町のKコーヒーで
荘要傳氏に面談。 
・国連宛の「台湾の将来の地位を決定する国民投票を実施するための請願書」の草案を書いて欲しいとの要請を受ける。

・次の土曜日、台湾銀行の草山温泉にある寮で相談することを約束する

草山温泉にある台湾銀行寮を降り、3日後に「請願書」を書き荘氏に見てもらったあと焼き捨てる。
・華南銀行の研究室に1週間の休暇をもらい、台南市の飛行場から、CATT(中華航空の前身)の飛行機人に乗り、香港の啓達飛行場に着く。飛行場で、荘要傳氏の出迎えを受ける。


(参考 邱永漢著『わが青春の台湾 わが青春の香港』。同著(小説)『客死』)