(1910年3月22日 - 1986年5月9日)

⚪︎  廖文毅の経歴
1925年(大正14年) 公学校卒業後、淡水中学校に進学。
     わずか1年で日本の同志社高校に転籍。文筆家になることを決意。
1928年(昭和3年) 2番目の兄に説得され、考えを変え南京の金陵大学工学部機械科に転校。
1932年(昭和7年)ミシガン大学に留学するため渡米し、修士号取得後、オハイオ州立大学に転校。
1935年(昭和10年)「塩化ナトリウム溶液の電解法による紙パルプの製造」論文で、化学工学の博士号取得。
1936年(昭和11年)〜1939年(昭和14年) 
         中国(中華民国)浙江省の浙江大学で教授を務める。
         このため台湾総督府から忌諱の対象とされる。
1941年(昭和16年)真珠湾攻撃による対米開戦の頃から特高の監視が厳しくなり、再度中国に渡る。
1945年(昭和20年)日本の降伏により台湾へ帰り、台湾を領土に編入した中華民国(南京国民政府)の台湾統治機関に務め始める。
しかし、日本統治下で台湾人が受けていた種々の差別的な待遇が中華民国統治下でも変わらないことや、中華民国の台湾統治機関の腐敗に対する批判から台湾人の自治を求めるようになっていく。
その後、二・二八事件を切り抜け、香港に渡り、謝雪紅と「台湾再解放連盟」を設立。
1950年(昭和25年)日本に渡り、台湾独立党を設立。
         台湾の前途を決めるための国民投票の実施を求めるようになる。
1955年(昭和30年)台湾共和国臨時政府を樹立し、その大統領を務める。
         政府機関紙「台湾民報」を創刊して台湾独立を目指す。
1965年(昭和40年)5月14日 中華民国政府(台湾国民政府)の圧力に屈し、台湾独立運動を放棄する声明を出し、台湾に帰る。
1965年(昭和40年)6月 蒋介石の特赦を受ける。
         12月 国民党政府から職務を与えられる待遇を得る。
         以降、死ぬまでまで、常に国民党政府の監視下に置かれる。

⚪︎ 邱永漢のかかわり
1946年(昭和21年)廖文毅が台北市の邸宅内で小雑誌『前⚪︎』を使って開催する『省都無力者会議』に出席し、廖氏の話を聴く。
1948年(昭和23年)・荘要傳氏から伝えられていた段取りに基づき、台湾から飛行機で香港啓徳飛行場に到着。廖氏の出迎えを受け、廖文毅邸に行き、荷物をおく。廖氏の案内で、香港島側のリパルスベイ・ホテルで昼食をいただく。
         ・その日から台湾で練ってきた国連事務総長あての日本語の「請願書」を再現。
         ・その「請願書」を廖氏が2日かけ英語で打つ。
         ・廖氏とともに、その英文の「請願書」案を持って。駐香港・アメリカ総領事館に行き、副領事が米国人に通じる英文に書き直してもらう。完成した「請願書」に署名し、国連に送り出す。
         ・1週間後のその翌日、台湾に戻る。
1948年(昭和23年)・10月末のある日、香港で投函した請願書が国連に届いたことを伝える記事を見、危険が迫っていることを察知する。
         ・荘要傳氏と1時間ずらして、互いに台湾から香港に飛ぶことを約束。約束通り、ペニンシュラホテルの正面玄関前で、荘氏と落ち合い、廖邸に向かい、以降、ともに投宿する。

(参考  『廖文毅ーWikipedia』。『廖文毅ー維基百科 自由的百科全書』。邱永漢著『わが青春の台湾 わが青春の香港』。)