(1917年(大正6年)生まれ)
⚪︎ 薄井恭一の履歴
・1934年(昭和9年)学習院中等科入学(要・確認)。
・1939年(昭和14年)東京帝国大学文学部東洋史科に入学。
・1940年(昭和15年)長沢規矩也との共著『宋刊本「酔翁談録」について』ならびに『観瀾閣漢籍善本本書目・観瀾閣漢籍目録』を『書誌学第15巻第4号 昭15・10』に掲載。
・1941年(昭和16年)4月、大学3年生の時、40日余、北京を旅行。
・1941年(昭和16年)晩春、京都帝国大学の青木正児先生を訪ねる。
・1941年(昭和16年)7月、「訪燕雑記」執筆。『中国文学』9月号・通巻第76号に掲載される。
稿料で両親を帝国ホテルでの食事に招く。
・1941年(昭和16年)12月、東京帝国大学文学部繰上げ卒業。
・1942年(昭和17年)2月1日、入営。
・1942年(昭和17年)『明清插図本図録・薄井君入営記念会 編』が「薄井君入営記念会」から
出版される。
・南方に出征。
・1945年(昭和20年)、終戦放送をジャカルタの第16司令部で聞く。
(セレベスのマカッサールから仏印のプノンペンへ赴任の途中。)
・1947年(昭和22年),秋、復員。
・文藝春秋社に入社。
・柴田書店顧問。
・1976年(昭和51年)5月 『随筆 味めぐり』刊行(柴田書店)。
・1978年(昭和53年)5月 『豆腐屋の喇叭』刊行(人文書院)。
・1983年(昭和58年)9 月 大谷光瑞 著『食』 ; 編訳(春秋社)。
・1983年(昭和58年)11月 『随想美味 求真』刊行(春秋社)
・1983年(昭和58年)11月 『豆腐屋の喇叭』刊行。
・1986年(昭和61年)6 月、『東京食べるならこの店がいい : くいしんぼの味覚散歩』敢行(淡交社)
⚪︎邱永漢のかかわり
・薄井恭一氏の弟、薄井憲二氏と東京帝国大学経済学部で同級生。
・1954年(昭和27年)、西川満氏の勧めで「オール新人杯」に小説「龍福物語」(のち「華僑」に改題)を投稿。応募作品、九百数十篇の中の最後の五扁に残る。
・1954年(昭和27年)4月、香港から横浜港に着いた時、薄井恭一氏の出迎えを受ける。そして「龍福物語」は賞にもれてしまったことを伝えられる。
・薄井恭一氏から大阪の和菓子老舗、鶴屋八幡がスポンサーとなって発行している「あまカラ」への投稿を勧められ、その結果、「食は広州に在り」を連載し、龍星各社から出版の運びとなる。続いて「象牙の箸」さらにまた「食前食後・漢方の話」と連載が続き、「象牙の箸」は中央公論から、また「食前食後・漢方の話」は婦人画報社から出版されることになる。
(参考 邱永漢著『わが青春の台湾 わが青春の香港』。薄井恭一著『豆腐屋の喇叭』)
⚪︎ 薄井恭一の履歴
・1934年(昭和9年)学習院中等科入学(要・確認)。
・1939年(昭和14年)東京帝国大学文学部東洋史科に入学。
・1940年(昭和15年)長沢規矩也との共著『宋刊本「酔翁談録」について』ならびに『観瀾閣漢籍善本本書目・観瀾閣漢籍目録』を『書誌学第15巻第4号 昭15・10』に掲載。
・1941年(昭和16年)4月、大学3年生の時、40日余、北京を旅行。
・1941年(昭和16年)晩春、京都帝国大学の青木正児先生を訪ねる。
・1941年(昭和16年)7月、「訪燕雑記」執筆。『中国文学』9月号・通巻第76号に掲載される。
稿料で両親を帝国ホテルでの食事に招く。
・1941年(昭和16年)12月、東京帝国大学文学部繰上げ卒業。
・1942年(昭和17年)2月1日、入営。
・1942年(昭和17年)『明清插図本図録・薄井君入営記念会 編』が「薄井君入営記念会」から
出版される。
・南方に出征。
・1945年(昭和20年)、終戦放送をジャカルタの第16司令部で聞く。
(セレベスのマカッサールから仏印のプノンペンへ赴任の途中。)
・1947年(昭和22年),秋、復員。
・文藝春秋社に入社。
・柴田書店顧問。
・1976年(昭和51年)5月 『随筆 味めぐり』刊行(柴田書店)。
・1978年(昭和53年)5月 『豆腐屋の喇叭』刊行(人文書院)。
・1983年(昭和58年)9 月 大谷光瑞 著『食』 ; 編訳(春秋社)。
・1983年(昭和58年)11月 『随想美味 求真』刊行(春秋社)
・1983年(昭和58年)11月 『豆腐屋の喇叭』刊行。
・1986年(昭和61年)6 月、『東京食べるならこの店がいい : くいしんぼの味覚散歩』敢行(淡交社)
⚪︎邱永漢のかかわり
・薄井恭一氏の弟、薄井憲二氏と東京帝国大学経済学部で同級生。
・1954年(昭和27年)、西川満氏の勧めで「オール新人杯」に小説「龍福物語」(のち「華僑」に改題)を投稿。応募作品、九百数十篇の中の最後の五扁に残る。
・1954年(昭和27年)4月、香港から横浜港に着いた時、薄井恭一氏の出迎えを受ける。そして「龍福物語」は賞にもれてしまったことを伝えられる。
・薄井恭一氏から大阪の和菓子老舗、鶴屋八幡がスポンサーとなって発行している「あまカラ」への投稿を勧められ、その結果、「食は広州に在り」を連載し、龍星各社から出版の運びとなる。続いて「象牙の箸」さらにまた「食前食後・漢方の話」と連載が続き、「象牙の箸」は中央公論から、また「食前食後・漢方の話」は婦人画報社から出版されることになる。
(参考 邱永漢著『わが青春の台湾 わが青春の香港』。薄井恭一著『豆腐屋の喇叭』)
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